思えば洗脳されていたのかもしれません。幼い頃から家に牛がいて、 将来は自分も「牛を飼うことになるんだろうなぁ」と漠然と思っていましたから。 北海道の酪農大学に進んだのも、疑う余地のないごく自然のなりゆきでした (まぁ当時は酪農の勉強よりも、遊ぶことに専念していましたが……)。
 ただ、具体的な目標はそれなりに描けるようになっていきましたね。 「ファミリー的な酪農がやりたい」と。那須の森永試験場で研修についた時、 こういう大規模な形態は自分に合わないだろうと思ったんです。人をあずかる自信もありませんでしたし。
 のんびりと家族単位で頑張っていければ御の字だよなぁなんて、若いくせにささやかな夢なんか抱いたりしたわけです。  転機は唐突にやってきました。父の他界です。学校を卒業して半年目の頃。 北海道に残って牧場で牛の世話をしながら、「イギリスに渡って本場の酪農でも勉強してくるかな。 せっかくだから」と考えていた矢先のことでした。心、揺れました。とまどいました。 でも、田舎に母ひとり残しておくわけにはいきません。牛も待っていました。 「やむなく」という言葉はこういう場合に使うんですね。私はやむなく島根に帰省しました。
 ファミリー的な酪農への志向は、とりあえず撤回。いえ、そこにあったのは規模や労働力の面から見れば、 明らかに「ファミリー的」だったのでしょう。けれど、父が残してくれた施設はちょっと違っていました。 当時、他ではほとんど見ることのなかったフリーストールの牛舎を早々と導入していたんです。 牛はわずか30頭ほどなのに、牛舎は200頭用。ひょっとすると、父は私より一歩も二歩も先を進んでいたのかもしれません。 私はこの牧場に、「事業としての酪農」を見ました。目先のことだけにとらわれるのではなく、 これからどう進んでいけばいいのかという大局を、父に教えられた気がしました。
 本当の意味での勉強は、大学を卒業してからになるでしょう。ほんの少しの予備知識など、 実地ではそれほど役にはたちません。私、母、そして大学時代の同級生が半年後に仲間になってくれて (今村くん。彼は現在九州で酪農をやっています)、みんなでひとつずつ手さぐりでやっていきました。昭和50年のことです。